梅《やえうめ》の紋《もん》を抜き、下の方に唐《から》美人が高楼に坐《ざ》して琴を弾《だん》じている図がある。楼の柱の両側に「二十五|絃《げん》弾月夜」「不堪清怨却飛来」と、一対の聯《れん》が懸《かか》っている。裏は月に雁《かり》の列を現わした傍《かたわら》に「雲みちによそえる琴の柱をはつらなる雁とおもいける哉《かな》」と云う文字が読めた。 しかしそれにしても、八重梅は津村家の紋でないのであるが、養家の浦門家の紋か、あるいはひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると、新町の館《やかた》の紋ではなかったのであろうか。そして津村家へ嫁ぐについて、不用になった色町時代の記念の品を郷里へ贈ったのではないか。恐らくその時分、実家の方に年頃の娘かなんぞがいて、その児《こ》のために田舎の祖母が貰い受けたと云うことも考えられる。またそうでもなく、嫁いでからも長く島の内の家にあったのを、彼女の遺言か何かによって国元《くにもと》へ届けたとも想像される。が、おりと婆さんも若夫婦も、一向その間の事情に関して知るところはなかった。たしか手紙のようなものが附《つ》いていたと思うけれども、今ではそれも見あたらない、ただ「大阪へやられた人」から譲《ゆず》られたものであることを聞き覚えている、と云うのみであった。 別に、附属品を収めた小型の桐の匣《はこ》があって、中に琴柱《ことじ》と琴爪《ことづめ》とが這入っていた。琴柱は黒っぽい堅木《かたぎ》の木地で、それにも一つ一つ松竹梅《しょうちくばい》の蒔絵がしてある。琴爪の方は、大分使い込まれたらしく手擦《てず》れていたが、かつて母のかぼそい指が箝《は》めたであろうそれらの爪を、津村はなつかしさに堪えず自分の小指にあててみた。幼少の折、奥のひと間で品のよい婦人と検校《けんぎょう》とが「狐※[#「口+會」、第3水準1-15-25]《こんかい》」を弾いていたあの場面が、一瞬間彼の眼交《まなかい》を掠《かす》めた。その婦人は母ではなく、琴もこの琴ではなかったかも知れぬけれども、大方母もこれを掻《か》き鳴《な》らしつつ幾度かあの曲を唄《うた》ったであろう。もし出来るならば自分はこの楽器を修繕《しゅうぜん》させ、母の命日に誰《だれ》か然《しか》るべき人を頼《たの》んで「狐※[#「口+會」、第3水準1-15-25]」の曲を弾かせてみたい、と、その時から津村はそう思いついた。庭