客も稀《まれ》になり、いつか知らず滅《ほろ》びてしまったのだそうである。 「ね、昔は吉野の花見と云うと、今のように道が拓《ひら》けていなかったから、宇陀《うだ》郡の方を廻って来たりして、この辺を通る人が多かったんだよ。つまり義経の落ちて来た道と云うのが普通の順路じゃなかったのかね。だから竹田出雲なんぞきっとここへやって来て、初音の鼓を見たことがあるんだよ」 ―――津村はその岩の上に腰をおろして、いまだに初音の鼓のことをなぜか気にかけているのである。自分は忠信狐《ただのぶぎつね》ではないが、初音の鼓を慕《した》う心は狐にも勝るくらいだ、自分は何だか、あの鼓を見ると自分の親に遇《あ》ったような思いがする、と、津村はそんなことを云い出すのであった。 ここで私は、この津村と云う青年の人となりをあらまし読者に知って置いて貰わねばならない。実を云うと、私もその時その岩の上で打ち明け話を聞かされるまで委《くわ》しいことは知らなかった。―――と云うのは、前にもちょっと述べたように、彼と私とは東京の一高時代の同窓で、当時は親しい間柄であったが、一高から大学へ這入る時に、家事上の都合と云うことで彼は大阪の生家へ帰り、それきり学業を廃《はい》してしまった。その頃私が聞いたのでは、津村の家は島《しま》の内《うち》の旧家で、代々質屋を営み、彼の外《ほか》に女のきょうだいが二人あるが、両親は早く歿《ぼっ》して、子供たちは主に祖母の手で育てられた。そして姉娘はつとに他家へ縁づき、今度妹も嫁入り先がきまったについて、祖母も追い追い心細くなり、忰《せがれ》を側《そば》へ呼びたくなったのと、家の方の面倒を見る者がないのとで、急に学校を止《や》めることにした。「それなら京大へ行ったらどうか」と、私はすすめてみたけれども、当時津村の志は学問よりも創作にあったので、どうせ商売は番頭任せでよいのだから、暇《ひま》を見てぽつぽつ小説でも書いた方が気楽だと、云うつもりらしかった。 しかしそれ以来、ときどき文通はしていたのだが、一向物を書いているらしい様子もなかった。ああは云っても、家に落ち着いて暮らしに不自由のない若旦那《わかだんな》になってしまえば、自然野心も衰《おとろ》えるものだから、津村もいつとなく境遇《きょうぐう》に馴《な》れ、平穏《へいおん》な町人生活に甘んずるようになったのであろう。私はそれから二