そんな事情で、その後津村は二三度上京したけれども、学校を出てからゆっくり話し合う機会を得たのは、今度が始めてなのである。そして私は、この久振《ひさしぶり》で遇《あ》う友の様子が、大体想像の通りであったのを感じた。男も女も学生生活を卒《お》えて家庭の人になると、にわかに栄養が良くなったように色が白く、肉づきが豊かになり、体質に変化が起るものだが、津村の人柄にもどこか大阪のぼんち[#「ぼんち」に傍点]らしいおっとりした円みが出来、まだ抜け切れない書生言葉のうちにも上方訛《かみがたなま》りのアクセントが、―――前から多少そうであったが、前よりは一層|顕著《けんちょ》に―――交るのである。と、こう書いたらおおよそ読者も津村と云う人間の外貌《がいぼう》を会得されるであろう。 さてその岩の上で、津村が突然語り出した初音の鼓と彼自身に纏《まつ》わる因縁《いんねん》、―――それからまた、彼が今度の旅行を思い立つに至った動機、彼の胸に秘めていた目的、―――そのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]は相当長いものになるが、以下なるべくは簡略に、彼の言葉の意味を伝えることにしよう。――― 自分のこの心持は大阪人でないと、また自分のように早く父母を失って、親の顔を知らない人間でないと、(―――と、津村が云うのである。)到底《とうてい》理解されないかと思う。君もご承知の通り、大阪には、浄瑠璃《じょうるり》と、生田《いくた》流の箏曲《そうきょく》と、地唄《じうた》と、この三つの固有な音楽がある。自分は特に音楽好きと云うほどでもないが、しかしやはり土地の風習でそう云うものに親しむ時が多かったから、自然と耳について、知らず識《し》らず影響を受けている点が少くない。取り分けいまだに想《おも》い出すのは、自分が四つか五つのおり、島の内の家の奥の間で、色の白い眼元のすずしい上品な町方《まちかた》の女房と、盲人《もうじん》の検校《けんぎょう》とが琴《こと》と三味線《しゃみせん》を合わせていた、―――その、ある一日の情景である。自分はその時琴を弾《ひ》いていた上品な婦人の姿こそ、自分の記憶《きおく》の中にある唯一《ゆいいつ》の母の俤《おもかげ》であるような気がするけれども、果してそれが母であったかどうかは明かでない。後年祖母の話によると、その婦人は恐らく祖母であったろう、母はそれより少し前に亡くなったはずであ